捨てられない一冊

20代のライターや編集者と飲むと「影響を受けた雑誌は何ですか?」と訊かれることがある。
いろいろと考えるが、一誌と云うのは難しい。

僕は雑誌に憧れて、雑誌から編集の世界に入ったが、ここ最近はノマドライフもあって、雑誌を作るより、現実的に「雑誌を捨ててきた」数年間だった。自分の荷物を数箇月おきに整理する度、本や雑誌を山ほど処分した。数百冊だろうか。もしかしたら千冊以上か。

でも、どうしても捨てられなかった何冊というのはやっぱりある。
そのうちの一冊が『SWITCH』の98年12月号。

巻頭は演出家の野田秀樹さんのロングインタビューで、写真は繰上和美さん。テキストは編集長の新井さんである。

僕は取り立てて演劇に詳しいわけでも野田さんのファンというわけでもなく、何度か遊眠社やNODA MAPの舞台を拝見しただけの本当に舞台に関して知識の浅い素人である。

それでもこのインタビューは何度読んでも飽きることはない。肉体を使った表現者としての、野田さんの運動神経に裏打ちされた知性が至言となって散りばめられている。(記事で野田さんは右目を失明したことを、さらっと語っており、僕はその事実にかなり驚いた)

僕が当時、ラインを引いた部分を記しておこうと思って、このブログを書いている。

「自分の怪我はたいしたことではない。自分の話を最後まで書く小説家がいるじゃないですか。何だか僕の中では、やれ茶を飲んだの、恋をしたのだの、というのは誰でもやっていることで、別にそんなもの長々と書くなよという思う方だから。俺がどんなに悩んだかといったバカな話を書いてもしょうがない。」


「別にこのくらいたいしたことではない。親の死とか滔滔と語る人というのも俺はあんまり信じないかな。誰でも通過することだし。」


「見て嘘に見えるというのは嘘なんですよ。それはどんな役者も気がついていることで、動きもそうだし、呼吸もそうだし、間もそうだし、足さばきもそう。『ああ芝居だな、芝居っぽいな』と思った時は嘘なんですよ。本当の芝居をやっている時は、それと気がつかないで劇場にいることも忘れてしまう。」


「血を知らないでアニメで育った脚本家や演出家が増えてきているんだよね。簡単な言葉で言うと、『荒唐無稽な物語』というものを書く人がいなくなってきている。荒唐無稽な物語を語るためには身体を鍛えていないとダメなんだ。歌舞伎がそうでしょう? 肉体がないと説得力を持たないじゃない。荒唐無稽を語ろうとすると単純なSFになるし、アニメになってしまう。それに、暗い陰惨な家庭の中での暴力の話になってしまって面白くないと思うな。それくらいの不幸はどこにでも起きているんだ、って本当は言ってやりたいような話。だって不幸が起こらない人生なんてないのに。」


「自分の兄貴の娘がダウン症なんですよ。そういうこともあって、自分の中で物語を沈ませて終わらせたくなかった作品なんです。いやらしい言い方をすると、作品を書くことは、恨みで書くことも呪いで書くこともひとつの姿だと思うけど、それはあまり好きじゃない。多分、俺の場合、祈りというか願いというものが書くことだった。」


樹木希林さんとの出会いは、過剰なことをやらなくても、もうほとんど無駄なく確実なことをやれるという人たちがいることを知った。」


ちなみに、この号は、野田さんの後に、森山大道さん、ポール・オースター、後半にはオリビエーロ・トスカーニ、ジョン・スペンサー・エクスプロージョン、ソウル・フラワー・ユニオンが登場する。

こうやって今読み返しても、やっぱり捨てられない一冊だと思う。
そして、僕が心惹かれるのはいつも「荒唐無稽な物語」なのだと痛感する。