中間共同体の継続性

色々思うことがあって、最近は、「サステナビリティ」という言葉を、最近は単に「環境」というより、ソーシャルキャピタルを含めた「共異体」の継続性、と考え直しています。(それも「人間における環境」と言えるのかもしれません)
孤独に陥らないで助け合って生けていけるコミュニティの継続性というか。

mixiにハマっていた時代も含めると、SNSを使って約7年ほど経ちますが、
その共異体のサイズとしては、個人の顔が見える範囲で、ゆるやかにつながっていても多くても千人以内くらいかなと思います。
それはFacebookのフレンド数も千人以内くらいが今のところ、顔が見えて、声が聴こえる範囲かなと僕の感触では思うからです。
ツイッターはソーシャルコミュニティというより、やっぱりソーシャル「メディア」でしょう。
情報をシェアしたり、アンプリファイするツールという意味合いが強いのかなと。

戦後、マッカーサーGHQが日本の地域を解体してから、やっぱり中間共同体がなさすぎたのだろうと思います。
その中で宗教のバックボーンもコネクションもなく、都会で「自立して一人で生きろ」というのはあまりに過酷すぎる。

単に将来の経済的な不安というだけでなく、そういうコミュニティへの危機感から、無意識に国家でもなく、三人の核家族でなく、中間的コミュニティを作ろうという動きが、あらゆるリアルな場所とソーシャルメディアの中で動き始めている気がしてなりません。