越後妻有レポート2

昨日に続いて大地の芸術祭をレポート。




「再構築」という名の鏡の家。

動画もアップ!




なぜカメラを下に向けているのに、空が撮れているかというと・・・



大きな鏡になっているんですね。「Sky Catcher09」。




ケンデル・ギール「分岐点だらけの庭」。 制作年は2000年だからずっと常設されている作品だ。説明にはこうある。
南アフリカ出身の作家の作品にはアパルトヘイトという背景が色濃く反映され、来訪して制作した有刺鉄線のような檻は、南アのアフリカ人居住地を思わせる。夏には緑に覆われる。」
でも、8月というのに全く緑に覆われていないし、一見ただの錆びた鉄塔である。これはどういうことだろう!?



「分岐点だらけの庭」の近く。こちらはチェロキー族のジミー・ダーハムの作品。ドアと排気口だけが無造作に設置してある。
アメリ先住民族チェロキー族出身の作家にとって現代人のありうべき形態は放浪しかない。ドアやポール、排気口などの家の断片を地面に立てられた作品には、人と暮らしの気配がある。」


これら2つの外国人作家はいわば社会的・政治的な問題を作品のテーマにしている(のだろうと思う)。
彼らは迫害や差別といった自身の民族的ルーツを表明しているのだが、
それらと、この新潟の山中という「場」とのかかわり方が見えてこず、残念だなと思う。


2000年の設置だし、展示に関しては、僕が知らないいろいろな苦労があったことだろう。
作品について知っている方がいれば教えてほしいのだが、僕が感じたのは、
彼らの民族的な悲劇的な歴史というのは、いわば、非常に深い叡智を持った固有の文化を外部からの侵略者たちの不理解や敬意の欠落から生じた暴力によって生まれたのではないかということだ。
しかし、逆説的な言い方をすれば、それらの問題を我々の意識に表出するための作品展示なのに、
この越後という土地への理解が(一見)感じられないというのは、
「自分たちがやられたことを自ら無意識に他の土地でやってしまっている」
とさえ感じられてしまうのだ。
この、非常にパラドキシカルな構造に気づいて「はっ」としてしまう。


決して作品が土地に阿ることがアートとしていいというわけじゃないけど、
越後妻有のようなランドスケープの中にある展示というものが、
どうやってその“場”と絡んでいけばいいのか。
同行したアーティストの新野圭二郎とも考えさせられたことだけは確かだ。



民宿のドアを開けると、蚊ならぬ蛙が入ってきてタイへン(笑)。



タレルの「光の館」うらに広がるフィールドを使った造形。
新野圭二郎、伏せる(笑)。



体育館にくもの巣。



ガレージをホワイトキューブにして、その中に写真、映像、盆栽などで人工的な自然を造っている。でもねえ、僕らは越後の山々や美しい棚田の風景が広がる圧倒的な自然の中をドライブしてここに辿り着いているので、自然の模倣を見せられても・・・と、一点一点の展示が離れている分、鑑賞する方もついハードルが高くなる。



ジャネット・カーディフ& ジョージ・ビュレス・ミラー「ストーム・ルーム」。
部屋はホルマリン臭い歯医者の一室。
「あれ?雨が降ってる、それに雷もしたような・・・」
この部屋は人為的に窓の外に雨を垂らし、雨漏り、雷鳴が10分のループで設定されている。
面白い試みだとは思うが、例えば、ホワイトキューブの中だとか、雨がなかなか降らない砂漠のような土地でこの展示だったら際立つのだろうが、
雨量の多い日本で雷雨というのははっきり言って日常なので、
この展示ははたしてどうなんだろう?と思う。
これもまた、「土地への理解」の問題のように感じた。


日比野克彦さんの展示。ダンボールを使った「種の船」。



学校は「明後日新聞」という架空の新聞社という設定で、色んなワークショップの形跡が残る。
日比野さんらしいポップな感触。WSに参加した子供たちは楽しかっただろうな。





ああ、今日もまた紹介仕切れなかった!(苦笑)。
続きはまた明日第三部で。